Hyper Carronade

灰色のはい

2020

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あけましておめでとうございます。

去年の総浚えもやらぬ内に年が明けてしまいました。という事でざっと去年を総括してみようかと思います。

 

全体的に情緒が大きく回復したと思います。久し振りに人間として生活できたと思っています。

ただ人間として生きると製作が疎かになりがちですね。この年製作した物の数が少ないです。というのも不慣れな長編・三部作などの続きもの漫画を一気に三つに増やしてしまったので、一本終わらせるのに三ヶ月くらい掛かってしまいました。

ていうか読み切り漫画はページ数足りないとまで言われたくらいなのに長編の1話になると3~40ページを超えるのなんなのでしょうね。

動画も2本くらいしか作ってないし。

インプットはまあ、映画はあまり観なかったけどアニメはそこそこ観たような気がします。空木は一週間待って1話ずつ観ると途中で飽きてきたり何も観たくない気分に差し掛かったりすると見逃して追い付けなくなったりしてアニメも観るの苦手なんですけど(クソ)去年は割と観られました。

小説や漫画は意識して読むようにしていたので平年以上読んだはず。好きな作家が増えたので良し。小説は数えたら17冊か。意外と少なかった。読書時間は移動中にしか取っていなかったからそうするとこのくらいが限界だろうな。

もう少し頑張れたろうなあ。製作自体もインプット作業も。

絵全然うまくなってないなあ。漫画は意識してコマ割りとか考えてはいる。でも独学になりがちだな…。

 

今年の目標は去年よりもっと勉強する事。ざっくり。

あと流石にいくら苦手とは言え映画は年最低でも10本は観ような。月一で映画観るデー作ったらええがな。

小説や漫画は引き続き継続して。

製作は、漫画は続き物の内のフェアレディ(三部作の方)を終わらせる。となるとコミティアには二回は出陣することになるかな。長編の去年ほったらかしてた方を4話まで更新する。もう一つの長編を出来れば2話分更新する。読み切り一本描く。かな。

動画は今やっている刀剣coc動画シリーズを終わらせたい…けどちょっと絶望的。版権動画の更新はこれで終わりにしようかなあと思っている。中途半端になってしまう。本当はキャラクターが一人でもロストor引退するまでやりたいけども。待たせているという罪悪感がすごいけど漫画が描きたいから動画製作疎かにしがちなのはなんだかだらしないなと感じるから区切りたい。でも作りたい動画を作らないままだとスッキリしないしう~ん…。

動画製作の終え処はまだ思案中。

あといい加減小型二輪免許を取りたい。旅行も二~三回行きたい。月一で展覧会に行くのも目標。

それから漫画描いて出版社に送っていこう。何かアクション起こしてちゃんとやっているという感覚を持とう。自分の為にしか漫画描けないから漫画家なれない~とかそういうのは今は後にして、やってみて分かってくる事絶対あるからやってみる。アクションの年にするぞ。

ブログも去年はあんまり更新しなかったのでもう少し頻度上げたいね。書く内容はいつも通り自分の思考整理です。

なにはともあれ今年もよろしくお願いします。

一昨日は高校の同級生と、自分の働く喫茶店でコーヒー飲みながら喋りました。

先日のコミティアのスペースに来てくれたパッション溢れる子です。面白い話たくさん聞けて楽しかったです。

彼女と喋ると、楽しい反面自分って本当になんとなくで生きてんなあ駄目だなあと思います。

きちんと真っ直ぐ創作に向かい合っている。愚直なくらい自分の気持ちに正直、真っ直ぐだから不器用なんだろうなと思うけど柔軟性があるから空木みたいに壁ぶち当たったくらいで鬱にならないだろう。まあ彼女の事なんも知らないからすごい適当な事言ってると思うけども。

深いところまでの思考。もっと考える時間が欲しいなあ。一人の時間が少なくなった。脳死している時間が多くなった。

私なんも考えてない。やっと賢くなってきたと思ってたけどまだまだ全然レベルが低いな…。

ていうか前々から思ってたけど空木、人と会話するとき会話の流れ、落としどころとか緩急とか色合いをデザインしがち。ここはこういう属性の言葉を言って、ここできゅっと締めて、こういう顔で終わりにする、みたいな。だから自分の本心とか意見より先にこの場に欲しい言葉を探しがち。なんかどこか外側にいる。

 ていうか私の思考は言語じゃなくて抽象的な聴覚なんだよな。

 小さい頃に少し音楽をやっていたから基盤というか、絵が生活の根底にあってそのスペアパーツが音楽だった。とか言って聴覚思考はそれとはまた違う音(音っていうのもまた違う気がするけど)なんだけど。声?頭の中で会話する。相手が自分だったり、現実で会話し終わった後の続きを頭の中でしたり、自分の中の形になってない感情を調べる為に架空の相談役を作ってただひたすらまとまるまで聞いてもらったり、適当に歩いてたらばったり誰かに会ったという架空の状況設定をして会話をしたりする。どれも現実に会話する時と同じようにしっかり流れを組んで綺麗に聞き心地が良いように調節する。

会話は私にとって音、音楽、物語、作品だな。

音による会話って抽象的だよな。残らないし。だから些細な会話は覚えてないのかな。

 

茶店で絵描きながら話した後、千葉市美術館でやっていた「目 非常にはっきりとわからない」展に行きました。

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 昨日が最終日でした。

同級生が前情報として、ツイッターで呟かれてる本展示の感想を教えてくれたんだけど「ぞっとした」とか「不安になった」とか「気づいたら二時間くらいいた」とかそういう感想ばかりで、一体どんな展示が待ち受けているのか?と思っていました。

けれどなんだろ、私は別にぞっともしなかったし不安にもならなかったな。「おお、なるほどすごい」とは思ったけど。どっちかと言うと迷路とか間違い探しみたいで楽しかったんだよな。

 なんか全て未完成で工事中で絶対に完成しない物で出来た空間で、入場する時に「audience」と印字されているシールを配られたけど、本当の意味でオーディエンス、ただの客、聴衆ではなく、そういうモチーフの一つとして扱われていて作品に組み込まれて、私達入場者含めて"展覧会"って感じだった。見る人と作品があって初めて展示って成り立つものな。

これはツイッター感想の中で腑に落ちた意見なんだけど大体他の展覧会で展示されている物は作品として完成させられたもので、その作品 対 見る側というはっきりした関係があるんだけど、この展示は見るべき作品がどれか分からないからこの関係が成り立たないんだと。そこに気持ち悪さが生まれていると。

確かに会場出た後本当に何でもない普通の工事現場のおじさんの荷物とか資材とか足場とかそういう物がさっきの展示みたいに見えたんですよね。それふと思った事だったんだけど結構この展示の核なのでは。作品と自分たちとそれ以外の境界を曖昧にする作品だ。

この展示の大まかな趣旨としては、今現在工事中の千葉美術館を利用したインスタレーション作品で、会場内はアトリエっぽくもあったし展覧会開催前の準備期間中みたいだったし改装工事中にも見えた。そしてこの空間がまた美術館の外観にマッチしていた。インスタレーション作品ってこうだよなと思った。

そして恐らくだけど、一日単位か開催期間内でか分からないけど展示の様相が変わってくるっぽいのね。私が入場した時ビニールシートで遮られていたところがあったんだけどしばらく見てたらアーティストっぽい人たちが動いていてやがてシートが外され違う空間が現れた。他にも時間で変わってそうな箇所があった。今回の展示、期間中再入場が本人確認さえできればタダだったんですよね。だからこれ繰り返し入場でもっと楽しめる展示なのかもしれない。二時間三時間滞在したっていうのもそういう意味なのかな。わたしゃ探偵か。本当に現代アートって意地悪ななぞなぞにしか思えないや。

同級生の見解は神視点の作品でお前らこんな不安定で未完成な世界で生きてるんだぞって突きつけている作品という事らしい(ざっくり)。工場現場の足場=不安を煽るという、モチーフの表す記号が私の中には無く工場現場の足場について感情を思い起こした事が無かったから観てすぐそういう風に言語で表せるからすげーって思った。彼女は多分言語論理思考の人かな。

私は観て、なんか団子が脳内に出来はするけどすぐには正体暴けなくて、こうして一人で椅子座ってブログ書く事で向き合ってやっと言語になるんだけど、前述した通り芸術とそれ以外の境界を曖昧にして芸術とは?と分からなくして今一度芸術を芸術たらしめる要素を考え直す事を提起する展示だと感じた。

多分この展示見た人によって見え方違うだろうな。

美術館が工事中の今だからできる展示で二度と同じ空間に行くことが出来ない。千葉美術館のあの武骨で立派な外観だから出来た空間。他の美術館じゃ出来ないな。

とても貴重な空間だった。

好きか嫌いかで言えばどっちでも無いけどじわじわ面白かった。言語化した今すごい面白い展示だったなーと思えてる。

 

芸術を芸術たらしめるもの…。見た人の脳に何某かをもたらす意図が感じられるか否か、かなあ。

この展示も会場内にあったものはありふれているし未完成だから何一つ芸術が無いように見えるけど少し引いてこの展示全体が、この未完成な物達ありきで成り立っていて思考促進機関みたいになってたから芸術と言える。でも道端の工事現場の足場なんかは誰かが必要でそこに置いていた仕事道具で、展示会場にさえ置いていなければ見ても何の感情も呼び起こさない物だった。これは芸術では無い。かなあ。

 

同級生は漫画を描く人で何本か商業漫画描いててそれについて主にお話をしていた。

漫画は商業。何回も言われてきた事だけど、結局好きな物を描いて認められるかは力-power-が全て解決しそうだよ。譲歩とか我慢とか要らないと思う。

私とその同級生は同じでは無いけど多分、アート寄りなのだろう。なんていうんだろう。表現をしようとしているんだよな。皆の為に楽しい漫画を描こうとしている訳じゃなくて自分の中の何かを漫画の形にする事自体に意味があるんだ。描きたい>読みたいなのかな。

私もコミティアの新刊をこの間編集部に送りました。結果待ちだけど、正直商業漫画を描ける気しないよな。自分の為の、漫画を描く行為。同人できっと充分…。

やるなら迷うなよな。まあそれは結果出てから。

でもなんか、続けたなあ。ここまで。

美大の教授との漫画家になる約束、絵を描くのを表現をする事を辞めないで欲しいっていう願いだったと思う。

同級生の同じ大学の人達の中で絵を描かなくなった人の話が出てきた。

やっぱり辞めちゃう人っているんだと思った。他人事だけど。私は続けたなあ。じんわりと安心した。

辛い事とかしんどい事とか勿論あるけど表現を辞める事だけはしない。表現の世界にずっといたい。商業でも表現の世界で色んな刺激や情報があるはず。私はそれが欲しい。

 

また長々と書いてしまった。

カミーユ・アンロ~蛇を踏む~

初台まで行き、見てきました。


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また久し振りの展覧会で腰がなかなか上がらなかったのですが、楽しかったです。

初台か遠いな~と思ったけど東京オペラシティのアートギャラリーには前一度詩の展覧会の時に来たなあと会場来て思い出しました。

ギャラリーだしこういう現代のアーティストの作品を取り扱うからちょっと変わった、興味惹かれる展示が多いな。

入って一番最初に出迎えるは文学作品の引用と活け花の作品。

綺麗だった。

申し訳ない事に活け花の知識マジで0だから綺麗とか可愛いとか、ああここはこういうモチーフを再現してるのか~しか分からなくてね…。部屋に飾りたいね。

他にも好きな作品あったけどまだ作品にカメラ向けてパシャパシャ撮る事に抵抗があって控えめにしか撮れなかった。

写真撮影は映像以外全部OKな展示でしたよ。増えたねぇ。

抜き出された作品の文章もなかなかエモーショナルで、帰りがけに気になった小説を買ってしまいました。

カミーユアンロと言うくらいだから外国の方なんだろうけど日本の文学書もちらほらあった。日本での個展に合わせたのだろうか。

展覧会の副題である「蛇を踏む」も日本の小説から来ていました。なんと今通勤時間に読んでる本「大きな鳥にさらわれないよう」と同著者でした。タイトル買い、タイトル観覧しているのがここでミラクル一致起こすとは。

 

次にドローイングの間があった。

パンフによると服についてだった。

人が身体を通すと立体的になり、脱ぐと模様が平坦になる。着ることによって人の形に沿うように変化する。脱いだら普通のチェック模様。いわば個性の着脱衣みたいな感じ。


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次は「青い狐」という一室まるまる使ったインスタレーション作品。

壁4面にそれぞれ自然、矛盾、理、連続性と、人類史や人生、地球史宇宙史のモチーフを年代ごとに並べてある展示。哲学者のライプニッツの四つの原理が割り当てられているらしい。

そして空間の真ん中に蛇。

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一定の間隔でかさかさ動く。

本当に蛇を踏んでしまいそうだった。

蛇とはやっぱりアダムとイヴを唆した悪魔のイメージが強い。それから脱皮を繰り返すから進化や連続性も連想される。

日本だと蛇は神の使いだったりもするね。

「青い狐」も何かの小説のタイトルだったっぽい。

 

次は映像作品。「大いなる疲労」。

これはめっちゃ良かった。

先の「青い狐」と対をなす作品でテーマを同じくしている。

歌うように読み上げるように唱えるように人類史や天地創造の詩物語が奔流する。生と死の積み重ね、原子の移動、神話。

博物館に収容されている鳥や植物の剥製がよく出てくる。

いくつもの引き出しの中に並べられた鳥たちの剥製。初っ端から私の好きなオニオオハシの固くなった姿が仰山出てきてひぇっとなった。

映像の情報量が多くてそれらをきれいに繋げることが私には出来なかった。

パンフによれば、剥製とは生態の研究のため分類のため生命の起源を辿るためなどに収集される物で、飽くなき人類の知識への欲求の現れであり、そして言ってしまえば剥製とは死体であり、それを積み重ね集積した知識を地盤にして築き上げた我々の現代とは死と永続の拮抗であると。

私も大学在学中、卒業した後もこういう表現をしていたかったなあと思った。

でも出来ないだろうなあとも思った。

興味が浅いんだ。研究とか極めるということが苦手だから、こういう作品作れないんだよな。私は瞬間的な知的欲求の解消の快楽に溺れながら作品作ってる。

あーすごい、もう一回観たい。二周三周すれば良かった。

 

コミティアの原稿終わってからやっと初めて遊びに行けて良かった。ずっとこの展覧会は行こう行こうって思ってたので尚更。少し開放感に浸れました。

 

さて創作頑張らないとねえ。

原稿燃え尽き症候群では無いけど、今日を迎えて明日を迎えていく訳ですがそれぞれそれなりの成果を上げねばならないのが心底面倒くさいし生きるのつまらないシーズンに入りました。もう全てが面倒くさい。ずっと眠っていたい。何もかもが気に食わない。

バイトも面倒になってきた。人間関係があるから面倒。接客が嫌い。

これでも心のボリュームが上がってきた方だ。

心の貧困的鬱で死にそうになった時は欲求を断つ。地獄大学在学中はとにかく自分が衝動的に人を殺さないように、そして少しでも苦しみを和らげる為に、欲しい物があっても心の中で要らない欲しくないどうでもいいと唱えるようにした。結果心のボリュームが下がりある程度鬱を乗り切れた。欲求を黙殺する事は手っ取り早い鬱の治し方かもしれない。(劣等感と自己否定からくる鬱にはこれ)

しかしこれには問題があって、鬱から脱却できた後、全然やりたい事が見つからないのだ。心のボリュームのつまみが極端に抑えられている。虚無になる。パトス的な物が自分から無くなって全部どうでもよくて何にも欲しくない。多分快方に向かってはいるだろうけど完治してない状態で、自分の心の音に注意を向けて出来る限り拾ってやってるリハビリ状態。これは作家志望として致命的では無いか。知識への欲求までも死んでしまっている。

どうでもいいことやってるとだるいんだよな。

全部無駄に思えてくる。

色んな事に価値が見いだせる程まだ余裕が無いのかもしれない。

やっぱりダブルワークして資金増やしてもっと経験を積み人生を彩る事に費やそうか…。少し創作の歩みを緩めて。

でも鬱じゃなくすべてに満足している完璧な自分に、作品を作る選択肢が必要だろうか…?どこか欠けているから、遠いところへ逃げたいから私は創作をしているのでは…?

また作品が生まれてくる場所が変わるのだろうか。

未来の事何もかも分からぬ。

コミティア反省会

 

コミティア無事終了しました。お疲れ様でした!

早速反省会と洒落込みたいところですが、イベント後の現在お腹空きすぎて入ったコメダ珈琲味噌かつパンの常識の範囲外のデカさにおののいております。何も知らずにミニシロノワールまで一緒に頼んでしまった空木の運命や如何に。

 

新刊ですが
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装丁がなかなかうまく思い通りにいったので満足です。いやこんなにメタルメタルしいのは想定外でしたが。ケチらず追加料金払ってマットPPにして良かったです。

それから遊び紙も短編集の漫画達全部舞台が冬なので雪っぽくできて良かった。この遊び紙すごく綺麗でいいなあ。気に入った。

買いに来てくれた同級生にいつも装丁綺麗って言われたのが嬉しかった。ちょっと印刷代高くついても装丁拘りたいね。

 

イベント自体はなんか濃かったです。

と言っても空木は今回席外す時間が長かったのでその分スペースで暇してる時間が少なかったから余計濃く感じたんでしょうね。

実は隣のスペースの方がプロの方で、めっちゃ売れる横で誰にも見向きもされない状態が精神衛生上良くなかったのでゆっくりめに差し入れ配りをして雑談もたくさんしました。自由に使えるお金が増えたから差し入れもバンバン渡せるようになったのが嬉しいところ。

差し入れ配りだけでなく四階にある西3・4ホールとの行き来が大変でそこでも時間かかりましたが…。

差し入れもたくさん頂いたな…。なぜか差し入れ渡しに行ったのに逆に貰うこともあったな…。キャスト(オリキャラ)っぽい紅茶を貰ったので帰ったら飲みたいけれどコメダパンチの後遺症で明日になるかな…。

漫画自体はいつも通りの売れ行きでした。全然売れてないと思ってたけどいつも通りだった。大体フォロワーさんのおかげだ…。ありがたい。

久し振りに会う同級生や先輩達と喋れたのが楽しかったな。高校卒業以来全く会ってなかった子も来てくれた。他の友人の売り子をしていたらしい。イベントが濃いなと感じたのは50%くらいこの子のせい。いやあこの子はよう喋る。こんな密度の高い会話を毎日しているだろうからすごい頭が良い。変わってない。久し振り過ぎるのに挨拶みたいなのもそこそこに 最近の悩み事を話し出したのには笑ってしまったし嬉しかった。お互い高校卒業から色んなことを経て数年過ごしたはずなのに、私との会話は高校生の続きみたいな感じだった。

 でも最近の私は自分の一貫性っていうかそういう確固たる芯みたいな物が弱っている気がしている。明日の自分はまた違う自分になってしまう。毎日別人みたいになって自分がどういう人物なのか分からなくなる。

その子から見た高校時代の私は強い人間だったらしい。絶対に曲げない譲れない物があるように見えていたらしい。もう自分ではあまり思い出せないけどやたら個性にこだわっていたよ。制服に帽子にブーツにカラータイツのファッション、油絵の具で汚れたスカートを頑なに買い替えなかったり(注意された)ルーズソックス履いて来たり(怒られた)制服は安全ピンだらけ。漫画もなんかやたらアメコミっぽくしてみたり謎にテンション高いし漫研でも絶対上限20ページくらいまで描いていたし、確かにこうやって列挙していくとなんか強い。目立ちたくは無かったけど自分という存在が埋もれるのが許せなかったし、同じクラスの”普通の”高校生たちに、合わせたいような魅力は無かった。

それから美術部や漫研には天才がたくさんいた(今日来た子もその一人)から、ライバル心を勝手に燃やしていた。負けたくなかった。何の勝負?

絵とか漫画描いてないと死ぬ人種だから命かけてたな。いつから腑抜けたんだろう私は。

 

絶対に美術予備校のせいだと思ってる。

 

そうそう、今日が濃い理由のもう一つはその子に発破掛けられてというかパワー貰って閉会30分前に急遽出張編集部へ新刊を持って行ったんです。 

一応本命としている編集部は無かったけど、比較的近しい雰囲気のところに行った。

初めてだったんだけど、あんな紙切れ一枚ちょこっと描くだけで作品を編集者に見てもらえるってすごいや…。もっと事前にはがきとか送って予約しないと駄目だと思ってた。調べすらしなかったのは作品が講評されることがトラウマと化していて怖いからそもそも行くつもりなんて微塵も無かったんだ。

結果としては、怖いくらい優しかった。

勿論褒めっぱなしって訳じゃなく褒めつつアドバイスをくれた。なのに全然傷付かなかった。なんで?穏やかな喋り方だったからかなあ。優しすぎる…。

終わりの方に行ったから編集者さん疲れてるだろうし緩くなっている可能性も否めないけど本当に良いの??貶さないの??って心配になるくらい、優しかった…。昨今の流れ的にもそうなのかもしれないね。優しく否定せず自己肯定感を育てる感じ。

講評の正しい在り方がどれかは分からないけど、通ってた美術予備校の大人数の中で作品の良し悪しを上中下に分けられて大人数の前で貶されたり無視されたりした講評よりこっちが良い。

予備校で大分心が折れたな…。大学でも折れたけど予備校で念入りに折られたせいだ。何度涙を流し総武線に飛び込もうと思ったのか。予備校が編集者さんみたいに優しさで包まれつつ良くなるようにアドバイスをしてくれて自己肯定感くれる感じだったら大学も卒業まで頑張れたかも知れない。いやそんなぬるま湯じゃそもそも美大には受からないのかな。分からないけど。

話が逸れたけど、作品の評価として、背景良く描けてる、資料たくさん見たのが分かる、余韻を残す情緒的な描写〇、一番最初の漫画の人物が一番いい、絵も良い、トミタさんみたいな人いるよねキツイけど悪い人って訳じゃない人、物語の種は良い、物語の終わりを区切るのが早い、もう少し物語の顛末が見たいってなっちゃうからもう少しページ数あっても良い、物語を経て主人公がどんな心境になったかが読みたい、キャラクターが背景に溶け込むタイプの絵だから微妙な匙加減になるけどモブと主人公格で差をつける、資料をたくさん見て背景を描いているから物語も資料をたくさん見て作っていくってのも良い。

ね、優しいでしょう。

意訳やうろ覚えの箇所もあるけど、概ねこのような事を言われた。

更にはもし商業で漫画描きたいと思う時が来たら連絡下さい、作品すごく良かったですとまで言われた。優しい…。

でもまだ私自分の為にしか漫画を描けない。他の人に娯楽を提供するための漫画、正直一生描ける気がしないんだよ。同人みたいに自分の為に描いた漫画を読んで好きって言って下さる方が徐々に集まる感じで割と満足している自分がいる。

まあでもプロでもアマでも本質的には良い作品を作る事を目指すという根元が一緒だから、案外心持ちはそんな変わらないのかな。それも雑誌の色によるか。

 

色んな事を考えた今日のイベント。もっと頭働かせて、また1からでも自分の確固たる譲れないこだわりを思い出さなきゃ。そしてやっぱり私は作品作らないと死ぬ勢であると実感した。

 

ああ、設営の反省点が少しある。

クリップをちゃんと持ってくること。メニュー表もう1サイズ大きい方が見やすいかもしれない。それかもう少し上の方、かがまなくても読める程度の高さに。見本の周りにごちゃごちゃ物置かない。見本は取りやすい位置に置く。いい加減イベント用のテーブルクロスを買うか作るか。あとPN変えすぎて名刺が無いから作る。漫画の本文ページを印刷して貼っておく。かな。

 

いやあイベント本当にお疲れさまでした。

 

結局味噌かつパンは1/3残してテイクアウトにしました。

 

猫とさよなら

実家の猫が死んでしまった。

悲しみたくない。ただ在り方が変わるだけだもん。肉体を脱いで毛玉を脱ぐだけ。形が無くなるだけ。

よく生きた。生きたことを讃え認めるのに悲しい涙ばかりでは華やかでは無い。

あまり亡骸には触らないようにした。触りすぎるとこの肉体だけが猫なのだと勘違いしてしまいそうなる。私は違うと思っている。思いたい。

死ぬって何なんだろうと思う。本当は消失するわけじゃ無くて一種の変化なんじゃ無いかと思う。

でも母と妹は亡骸を撫でながら話し掛けている。やめて欲しい。もうやめてくれ。悲しみたくない。

亡骸を家から運ぶとき、そして箱に入れるときに抱っこした。めちゃくそ重かった。けどぐにゃんぐにゃんして今にも零れ落ちそうだった。鼻から汁が垂れていた。制御のきかなくなった猫の肉体はただ早く焼きたかった。

けれどなんで骨壺に入った姿だけでこんなに悲しいんだろう。生命が止まってから正しい形に移ったのに、良いことなのに、なんて悲しいんだろう。改めて感情は善悪とは違うところにあると思った。

分骨したので手元に少し小さめの骨の集まりがカプセルの中に入ってる。

猫が生きた時間と真っ正面から向き合えるだろうか。

具合が悪いって聞いて、今月は無理そうだから来月実家に帰って顔を見ようと思っていた。普通に会えると思ってたんだけど、生きている内に会えなかった。それがすごく心残りだ。

母が心配だ。色々あったし猫と一緒にいた時間が長いから依存しているって本人も言ってたし、本当に一人になってしまう。

これから見送るという機会が増える。

嫌だな。誰も見送ること無く私が先に死にたいよ。

原稿の修羅場、バイト連勤、モンエナとカフェオレを交互に飲みながら血祭りにぶち当たり風邪を引き死にそうになっている空木です。

いやあ、こんなに締め切りに追い込まれる事なんて初めてじゃないか?ていうか同人誌即売会出るの一年ぶりだからな…しかもその1年前の時バイト勤務時間めっちゃ短かったから原稿やる時間たっぷりあったもんな…。

社会人として立派に働きながらコンスタントにイベントで新刊出してる人達すげえな…。

あと背景だけのコマを倒して、全ページ仕上げをして、スキャンして写植とトーン。それから表紙。それをあと一週間で終わらせなければならない。関節を襲う悪寒を宥めながら…

もっと効率の良い原稿の書き方をすれば良いんだけどね。背景とかごちゃごちゃ描いても正直無駄なんだろうけど背景描くのはわりと好きだしそもそも手の抜き方が分からないから全部描き込んでしまう。

でも大丈夫。辛いのはあと4ページ分だけ。その他はまあ手動かしてれば出来上がる。

 

というわけで進捗でした。やっぱり睡眠は大事だ。今日は寝ます。