Hyper Carronade

灰色のはい

芸術についてちょっと思った事をメモ程度に。

 

今はインスタグラマーとかツイッター漫画家とかユーチューバーなどが代表的なようにSNSなどによって誰もが創作者になれる。

芸術を楽しむ心も育まれていないのに。

私はこの国の芸術に対する意識は段々レベルが下がっているように思う。

なんでも規制、不愉快だから規制。不謹慎だから規制。炎上。見る側も作る側でさえもやっちゃあかん事をやってしまう。単に楽しみ方の知識、「楽しい」への理解、センスが足りないんだと思う。

人の事を言える立場では無いけど、創作者の母数の中にそういう芸術齧ったことの無い人が爆発的に増えて、一気にただの学校会社みたいな人間構成になってしまっているのかな。それで学級委員長みたいな人達が現れてしまって「皆気持ちよく仲良く楽しくやりましょう」とか言い出すから個人レベルの気に食わない物がどんどん追いやられてしまうような。「嫌い」と「悪」は違う所にあるものなのにそれすら分からない人達が大きい声を上げる。それはやめてほしいよな。

私は芸術はどこまで自由なのか分からないけど、特定の個人への攻撃に使ったり単なる犯罪行為は駄目だと思っている。一応人間だし。芸術家は人間を超越するのかっていったらそんな傲慢な事あるか、とも思う。作品はともかく作家は人間だし。

善は線引きが無い曖昧な物だけど、悪は存在すると思っている。

よく炎上してるユーチューバーの過激な動画とかいじめ動画は、容疑者が「面白いかなと思った」とか証言している事多いけどあれは悪なのはそうだけどそもそも面白いのセンスが無いなーと感じる。

芸術が大衆の物になる。手軽になる。

良い面もあるんだろうが、いかんせん我が国は芸術の教育が足りない。全体的に感性を磨く教育が足りてない。そうなると結局せっかく与えられた芸術も適当な玩具にされて汚されて捨てられるだけだ。なんとかできないものか。

こんな事、美大在学中は一応思い馳せたりもしたけどどこかで自分と関係ない所で偉い人が解決してくれる事だと思ってたな。それより自分の事に精一杯過ぎて。

そもそも私の立場はアーティストとは名乗れないただの素人で自分本位に漫画ばっか作ってるだけだからあまりこういう事には関われないかな。

でももう少し勉強したいから海外に行きたいな。

台風も過ぎ去り、こちらは奇跡的に特に被害も無くいつも通りの日常が始まりました。

東北の方結構被害が大きくて、今私がのんびり我がまま平和に過ごしているのが申し訳ない。募金ぐらいしかできない。

 

いやあ、週末は台風はさておきなかなかどうして自分の日では無かったですね。

週末にライブ鑑賞の予定があったのですが、最終的な発表では公演を予定通り開催するとの事で電車が動くのを待って品川まで行ったのですよ。

本当は同居人と行くはずだったのですが、同居人はどうせこのライブも中止になるだろうと踏んで他の予定を入れていやがったのです、私に何も言わずに。ライブ開催するよと言ったけどその他の予定を撤回するわけでも無く。数か月前から行こうね行こうねって言ってた私との約束<当日入れた予定。割と傷付きました。軽んじられてるな~…。

意地でも一人で行って楽しんできてやると思ったのですが会場に着いたらバンドメンバー本人たちが今日のライブはやっぱり中止だと、来た人たちに言っていた。バンドのホームページやツイッターを見たら午前中にそういうアナウンスがあった。

中止はまあ楽しみにしていただけに残念だけどこの台風だからしょうがないし、バンドメンバーも大変だろうにこんな情弱の為にお疲れ様ですとしか言えない。でも結果的に私の気持ちを軽んじ裏切った同居人の判断が正解だった事が気に食わな過ぎて再びメンタルがブレイクしました。

せっかくここまで来たし遅くまでぶらぶらしようと思い六本木の森美術館でやってる展覧会を観に行こうと思ったらこれも80分待ち。80分も一人であんな行列に並ぶ体力は無かった。映画も観たいやつは3時間後のレイトショー。終電に間に合わないので諦めた。世界に拒否されている…。

森美の近くにある喫煙所で一服しようとした。そこからは夜景に映える東京タワーと、その横に満月とまではいかないけど丸い月が浮かんでいるのが見えた。なかなかいい眺めだった。たくさんの人が写真を撮っていた。悠々と煙草吸いながら眺めていると少し機嫌が直った。

麻布通りらへんをぶらぶらするかと思い歩いていた。なかなかよさげな喫茶店を見つけたので入ってみた。トアルコ トラジャを飲みながら左手に煙草、右手に小説をもってゆっくり過ごした。トラジャは浅煎りめの方が香りがあって飲みやすくておいしい。というか深煎りの豆だと皆同じような風味に感じてしまう。コーヒーの味の7~8割は香りだと聞いた。香り命。単に私は苦いコーヒー苦手なだけだけど。でもうちの店で扱っているマンデリントバコは好きだ。

結局20時くらいに東京を離れた。のんびりするのも疲れた。

久し振りに適当にぶらぶらして楽しかった。大学の時を思い出した。いつもこんな感じだった気がする。でもお金が無かったからお店に入らずに本当にぶらぶらするだけだったな。

この家を出たいと思う。

価値観の合わない人とこれから先一緒にはいられない。というか私は人の為に生きられない。

でも言い出すのに勇気がいるなあ。向こうも同じような事思っていてくれればいいのに。

久し振りに風呂で泣いた。

何もかも振り切って捨ててきてそんな人生で良いんだろうか。

 

 

現在はコミティアの原稿に集中している空木です。

4年ぶりに短編集を作るのですがページ数が本文52pになりました。あと一か月で描けるのでしょうか。漫画部分は全部合わせると40p程度なので正直なんとかなりそうな気はしてます。作画は(背景なんか特に)マイペースにやってる長編よりも確実に気を配れないと思います。長編は寧ろ背景描き過ぎてる感じするので今回の手抜きで丁度いい塩梅になると良いな…。後書きもそれぞれの話ごとに書きたい。なにより今回装丁は白印刷を使おうと思っていて、それが楽しみだから新刊絶対出したい。

そもそも受かるとも限らない。抽選になるんだけど今回の応募サークル数1000オーバーしていたと思う。秋だからかな。まあ受からなかったとしても完成させて先に通販で先行頒布、次のコミティアで持っていけば良いかな。

 

ここ一か月ブログ等で自分の近況そんなに発信していなかったな。ツイッターはもう下手な事呟けないSNS認定している。絵や漫画だけ上げられたら良いんだけど、それならpixivとかサイト見てって思う。ツイッターが情報収集、テレビ的な存在となっている。

近況と言っても面白い事何もしてません。いつも通り…。

未読の漫画が溜まっていくばかりです。ちょっとずつ読んでます。今日は吾峠先生の短編集とずっと探していたワヤマ先生の『夢中さ、きみに。』を読みました。どちらも良かったです。鬼滅の刃全巻欲しい。アニメ良かったな…。

小説は通勤の時間に読んでいます。今読んでいるのは梨木香歩さんの『家守綺譚』です。この本の前の前に同著者の『f植物園の巣穴』を読んで、情景描写、主に植物の描き方とか少し硬い文体が好きになったのでちょっとこの人追っかけてみようと思い購入した本だったのですが、めっちゃ好き。怪談とか人ならざる者との交流とか目に見えないけど存在しているものとかそういうのがとても好きなので、この本は人生で読んだ中でベスト5に入るくらい好き。短編集みたいになっていて読みやすいですし。まだ読了していませんが。かの有名な『西の魔女が死んだ』の著者さんですね。これは実は読んだことが無いのです。恥ずかしながら。

固めの文体なのに読むとなんだか優しくて温かい。そういう印象を受けます。

優しい作品が描きたい、決してほのぼの日常系の漫画が描きたい訳では無いんだけど、優しい作品が作りたいな…。

今描いている短編漫画はどれも寂しい。私の漫画って全部悲しくて寂しい。優しい漫画が描きたい…。でも寂しいのも好きだ。

映画は相変わらずあまり見れていません。アドアストラが観たいなーと思っているくらいです。結構前だけど『禁じられた遊び』という古い映画のエモさに打ちひしがれていました。子供の純粋な危うさって良いな…。

それぞれ鑑賞記録するアプリを取っているのですが、映画も小説もまだ人生で合わせて100本も見てないっぽいです。思い出せない作品を入れても多分100本観てない。これはまずいっすね。モノづくりに生きたいと願う気持ちに偽りは無いけど、これはひどいぜ。今年の読んだ小説は今12冊目です。もっと読んでるかなと思ったらそうでも無かったです。頑張らねば~。

その代わりに音楽はそこそこ聴いてます。アマゾンミュージックで。適当におすすめされるアーティストの中から気になる人のアルバムを片っ端から聴いて好きになった曲はプレイリストに入れて最強の作業BGMを作ってる。最近ハマってるのはハンサムケンヤ、ミツメ、古川本舗です。あと今週ライブに行くので楽しみです。

スーツみたいな服とかっこいいロングブーツが欲しい。遠出がしたい。怖い時間まで一人でぶらぶらしていたい。おいしいご飯食べたい。自家焙煎の喫茶店を見つけたい。東北の方で気になる個展があるので遠征に行きたい。しかし東北の冬。結局まだ旧古河庭園にもたてもの園にも川越にも行ってない。今年中にこれらを制覇する事を目標に生きようかな。

 

最近アルバイト先にバリスタさんが入って来て、少し仕事がやり辛いです。

相手の方が知識と経験が豊富で何を考えてやっているのか分からないから仕事引き継ぎすら出来ない。こちらは下手な事出来ない。お客に出すのもバリスタさんが淹れたやつの方が良いだろうから私なんか皿洗いとかカトラリー用意するとか雑務するしかなくなる。少しつまらない。つまりシフトの穴埋め以上の存在価値を奪われてしまった訳だ。

まあ気にし過ぎなんだけどさ。別に私はバリスタ目指してないしお金を稼ぐついでに作品の為の取材をしているだけだから。大丈夫だ。

でも鬱々しいのが治りつつあるのは今のバイト先が楽しくて自由でゆるかったからだから居場所が少し圧迫されて不安になっているところはあるな。どうなることやら。

 

近況は以上です。

引き続き原稿頑張ります。

正解する器とメーデー

人は思想によりけりだけど基本、外殻の内側に自己という不変の魂の存在を信じていて昨日も明日も10年後も自分は自分と考えている。でも人はたくさんいるけどどの人も己は外殻の内側で目に見えない触れないし聞こえないから、相手の事は目に見える情報と自分の経験や知識という少ないヒントから想像するしかない。ましてや二度と会う事のない人の事なんか一つたりとも分からない。自分の自己も引き籠っているから誰にも分かってもらえない。あまつさえ弱音吐くなとか気を使う空気を読むとかそういうしがらみが更に自己に秘密を抱えさせる。みんな孤独。

他人がいつも正しくて、自分はいつも間違っている。そんな意識を持って私は生きてきた。言葉も下手だから私の事なんか誰にも分かってもらえないと口を噤んで更に引き籠る。

作品やら会話、ツイッターの呟きとかでもなんでもいいけど、他人の中に自分の姿を重ねて見ることが出来たら、きっと安心するんだろう。結局自己が内側に引き籠っているから自分が収まるべき形が分からないまま不定形で過ごしていたから、正解している他人の器に自分の器を確認してああ良かった間違ってなかったんだと思いたい、または器の形を真似して許されたいんだと思う。

作品に自己を落とし込んで公開しているのはきっと安心したいからなのだろう。孤独じゃないと思いたいんだろう。自分と同じ形の器を探しているのだろう。

作品の在り方は人それぞれだけど、私の作品はメーデー信号だ。

今次のコミティアの短編集のアイデア出しをちょこちょこやっているんだけど、私は物語を作るのが苦手だと感じた。どうしても自分の思った事とか思想をキャラクターに喋らせるタイプの漫画しか思いつかない。思想から物語に発展させるのが苦手。そこが要修行だ。メーデー信号なら物語にして濁す必要もないかもしれないが。じゃあ漫画じゃなくてもいいじゃんってなるしな。絵とは…字とは…。

前にあるあるネタの作品について思う所があると言った気がするけど、あれは一定の安心感が得られるんだろう。しかも大人数が当てはまる形だから大人数で作品の面白さを共有できる。楽しい面白いっていう感情にはそういう団欒的なものも含まれているのかもしれない。ただ上記の器探し的に言うとこの手の作品は少しお節介な存在なのかもしれない。単に私が天邪鬼なだけだろうか。これ欲しいんでしょはいあげるって投げて寄越されたら途端に要らなくなるタイプの人間は自力で探すしか無いんだわ。そしてその探す過程を寂しいけど楽しいと私なんかは思っているわけだ。

めっちゃ久し振りに美術館に行って来ました。ブログ書くのも久し振りですね。一応、はてなブログスマホアプリ取ったんだけどな。

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国立新美術館でやっていたクリスチャン・ボルタンスキーの展覧会。今日までだったので駆け込みで行きました。

最終日と言う事で混むのを見越して早めに家を出たのですが電車内で途中で気分が悪くなってしまいあまり早めとは言えない時間に入る事になりましたが、想定していたよりも空いていたので見やすかったです。やはり腐っても平日の月曜日か、皆さん仕事か。

展示はお洒落なホラーゲームの世界みたいでした。結構好きでした。

副題(多分)のLifetimeにある通り人生やその終わりに関する表現が多かったです。

死亡告知欄に張り出された人の写真を無数に並べたオブジェ、ホロコーストによる死者と間接的に結びつく人々(間接的がどの程度の事なのかはちょっと分からない)の写真のオブジェ、友人のアルバムで作った写真で見る人生ポートレイト、おびただしい量の黒い服で出来た黒いぼた山、黄金の海、ネオン、クジラの声、心臓の音、幽霊の廊下などなど。冷房のひんやり度も心に丁度良く。

やっている事は至極シンプルで、キャプションが無いと何やってるか分からない系のやたら難解な作品でも無く、分かりやすい作品だった。テーマが生死で誰でも等しく考え思い馳せる物だから連想がしやすいのかも知れない。

この展示で、服ってすごい色んな事を想像させるモチーフなんだなと思った。服は人の形をしていて現代じゃ誰でも着ていて、それがただくしゃっと置いてあるだけでもそこに人がかつて居たという事を連想させる事が出来る。ただの布じゃなくて「抜け殻」になる。それがたくさんあったらそれはもう、恐ろしい連想しか出てこない。黒い服のぼた山の作品なんか暗かったからただの黒い山かと思っていたのに服と分かった途端怖え~って寒気がした。

好きな作品は、そのぼた山の周りにいた黒い服を着た人形。なにかぼそぼそ喋っていた。ちゃんと聞き取れなかったけど日本語と外国語で喋ってた。ぼた山の幽霊かもしれない。来場者が寄り添ってぼそぼそ声を聞いていくスタイル。ちょっとかわいかった。

なんか良いなと思ったのが、今回パンフレットっていうか作品の一覧やキャプションが書いてあるやつが冊子じゃなくて新聞だった事。来場者が皆新聞読みながらネオンの光だけが映える暗い展示室を歩いているのを見ると昔の外国の風景って感じがした。外国行ったこと無いけどね。

ボルタンスキー氏若いのかと思ったらもう70歳を超えていらっしゃるようで、さすが現代アーティストなだけあって古臭さを感じなかった。年齢を感じるとしたら作品の完成度とか慣れを感じる部分くらい。

いやー久し振りの展覧会楽しかったな。綺麗だったし、本当に、脅かし要素の無い淡々としたホラーゲームみたいだった。

 

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 恒例のお土産。バッジと、コーヒーのドリップバッグが売っていたので思わず購入。飲んでみたらエルサルバドルインドネシア、ブラジルのブレンドらしく確かにエルサルバドルの煙草っぽい味がした。パッケージが影絵に使われていた絵でとてもかわいい。白黒基調だからどれもオシャレ。写真では潰れているけどボルタンスキーのロゴにネオンのコードがデザインされているんですよ。マグネットの絵柄に来世が無かったから買わなかった…来世欲しかった。最初から取り扱ってないのか 売り切れたのか…。

 

ボルタンスキーの下の階でグループ展もやっていたので行ってみた。

現代美術に潜む文学というテーマと言う事なのですが、これ難しいテーマだよなあなんて思いました。文学と芸術になるとどうしても挿絵風になりがちになるというか、文で呼び起こされるイメージを可視化する芸術がサポート役に徹してしまうというか…お互い説明し合っちゃうというか。この展示の中でもそういう面がいくつかあって想像通りな驚きの少ない展示会だった。

まあ、私自身展覧会行くの久し振りで芸術表現に触れていなかったから大分鈍っているし、ちゃんと作家さんの意図を汲めなかった可能性が大いにあるんだけど…。文字と絵は私の中で今追及のトレンドだからここから何かヒント貰えないかなと思っていたんだけど貰えなかった。

小説や漫画を描いている人も参加していたけどその人の作品はまさに典型な感じがした。最初に小説の冊子が置いてあって、それからその小説のイメージを順を追って絵や写真で説明していく。これなら小説や漫画の媒体で良かったと思う。地図とか本当に説明の為だけで余計にそう思える。この展示会のポスターにもなっている写真はすごくきれいで好きだったから、この写真だけでも良かった気がする。一番最初に展示されてた人の作品も、展示の最後に文を読み上げるモニターがあって、まあそうなるよなあという気持ちになった。展示というよりテーマパークみたいだった。

めっちゃ辛口で書いてるけど一個人のちょっと美術かじっただけの素人の感想でしかないのでどうか許してください…。

絵は現代では文の、読解力や想像力の欠如による不明瞭な部分を埋める手助けをするものなのか。また、文は絵の他人任せの不明瞭な部分をある程度の単位に分けられた単語で大衆向けに簡単に説明する為の物になるんだろうか。文章はある意味絵に対する興味や追及を殺すのではないか?絵と文は一緒になるとそうなってしまうのかな。詩も小説も芸術だと思うけど、絵とうまく良い感じになれないだろうか。それとも補い譲り合い足引っ張り合いの仲で良いんだろうか。

そもそもこの展示における「芸術」って枠組みはなんなんだ?媒体の事?芸術って何?文学は芸術の一つなのでは?今回の展示は焼きそばとラーメンのセットみたいな感じになってしまわない?分からなくなってきた。私は芸術の事を答えの無い意地悪ななぞなぞとしか見れていない。

作品自体は全部綺麗で、キャンバスの木枠を使った展示とか面白かったし、写真もすごく好きだった。

私もこのテーマを考え抜きながら生きて行かねばな…。

詩が読みたいな。詩を読もう。というか詩自体抽象画みたいなものだしな…。 

 

ああ~どれだけ勉強したら芸術を理解できるんだろうか。まだまだ全然知識足りてないぞ。

 

先日のコミティアで散財し過ぎてもうお金がない。

いい加減歯医者に行きたい。治療途中の虫歯があるのに引っ越ししてから一度も行ってない。やばい。広がっている。早く治したい…。

あと皮膚科にもいかねば。もう三ヶ月も指が湿疹だらけでかゆいの痛いの。

今月給料入ったら即病院へ。

ようやくやっていた漫画が完成した。

燃え尽き症候群が出る前にさっさと次の制作に取りかからないと。

その漫画を描きながら、何で私は表現者側にいようとしているのかな、なんで漫画という媒体でやってんのかな、ということを考えていた。

私は昔から自分の気持ちとか事柄について思ったこととか意思の表明をするときに、それを頭の中で言語に意味が伝わるように変換して音で以て出力する事が、その辺を司る何かがエラーを起こしてというか元々障害があるんだろうな、うまく出来なかったんですよね。

大事なときにも父親や先生に自分の気持ち言葉に出来ず話せなかったし。特に父親にはなんでこいつはこんなにうじうじしてるんだろう位にしか思われなかったかも知れない。

普段でも何言ってるのか伝わってない事あるし。逆に相手が言わんとしていることが汲み取れない事もたくさんある。現実でコミュニケーション下手でも良い私は作品で会話するんだ!とさえ思ってた。

「短い言葉だけで表現しきれない事だから作品を作ってるんです」ってどこかの小説家か誰かがインタビューで言っててそれがずっと印象に残っていて、そうか私が感じてから発声するまでに取り零す情報は漫画で掬えるのかも知れないと思っていた。

でも、よく考えたら言語に出力できないって事は論理的にその外的刺激から得たやつらを理解できてないという事になるのでは?自分でもよく掴めてない不確かな物を、どこまでも稀釈・抽象化できてしまう作品という媒体に落とし込んでしまうのは本末転倒な気もする。(そもそも取り零すような些細な物なんだからそういう風になるものなのかも知れない)

でもそこで不特定多数の観覧者という救いの手があって、稀釈してしまい作者自身が見失ってしまった物、あるいは無意識の産物をそれぞれの解釈が掬ってくれる。観覧者がいて初めて私の会話は成立する。

なんだか極めて他人任せな営みだな。

より要素の多い映像作品でも良いのになぜ漫画なのか。ずっとやってたから一番取り掛かりやすい、親しみやすいからに他ならなくて、今から映像の勉強をするなんて気が遠くなってしまいそうだ。それは怠惰だ。

映像作品は漫画作品の上位互換という訳ではないぞ。これらを私はまだいっしょくたに考えていて、音や動きの情報量でしか違いが分からない。それぞれどんな表現に適しているのか知らねばならないな。

あーやる事いっぱい。もっとしっかりせねば。

原稿(特にペン入れ)やってると次第にマイナス感情が溜まってきて何の為にとかどうせ下手だとか面白くないとか自分の好きな事がうまく伝えられないとか自分の行為に意味を感じなくなっていく。まあいつもの事なんで完成したら元気になるの知ってるから情緒は大丈夫なのですが、これ以上技術が洗練されていく気がしないのがとても怖い。

もっと漫画巧くなりたい。表現上手くなりたい。

ジャンプ系の漫画が描きたい訳じゃないけど、王道漫画雑誌なだけあって漫画表現にはきっと学ぶこと多いだろうな。

そういえばジャンプコミックスほぼ持ってないな…。実家に置いてきた分もそんなに数無い。ジャンプコミックスの著名な作品大体30巻以上あるから集めるの大変なんだよな…。

なんか、話の分かりやすさや入りやすさ面白さや一般受けを狙うと個性が殺がれてどこかで見たような個性無しの漫画になる、って勝手な先入観抱いていたけど、本当に皆に愛されてる漫画はどれもその漫画の世界で独立しているっていうかちゃんとブランド力がある。個性無しは寧ろ受けてない印象がある。

話の分かりやすさ自体は個性を奪わない。もっと私の漫画にも分かりやすさを足していこう。というか今時点でどの程度分かりにくいのか分からない。モノローグあまり付けたくないから動作とか表情でどうにかしたい。

どう分かりにくいかはなんとなく予想できている。ある状況を受けてから次のセリフを発するまでの感情の流れや思考回路を読者に想像させる材料となる描写が不足している、というかそこを言葉で説明したくないからぼかしているが言葉以外での描写が不足している。それと単なる画力不足で登場人物が今どこで何を何に対してしているかが分からない、見えづらい。これはコマ割りも影響しているだろう。あとは見せ場が少ないな。アクションじゃないから派手なシーンが無い、ストーリーも盛り上がりに欠ける…あかん悪い所ばかり目についてますます原稿のやる気が…。だって褒められるところ無いし…。

そもそも私は物作りでやっていけるほど頭が良くないんだ。

生まれて20年以上経って最近やっと活字が読めるようになり、それでいて未だ自分の機嫌もコントロールできていない、人間として魂のレベルが低いと日頃常々感じる。

私より下の世代の子の方がよっぽど柔軟で深くて細やかな所まで気配りできる子が多い。いつも私の中に無い考え方や目の付け方をしていて、ああ敵わないなあと思うのだ。もう輪廻でしか自分は進化出来ないのではと感じている。

そんな自分に、分かりやすく且つ自分にしか描けない漫画をコントロールして描けんのか?もう形にするだけでいっぱいいっぱいになってるのに、読者の事まで考えられるほど遠くから自分の行いを見つめることが出来ない。

だからって開き直るなよな。一生勉強しろ