Hyper Carronade

灰色のはい

最近はネトフリを活用しようと作業中に映画やアニメなどを流しています。

しっかり見るタイプの映画は作業のお供には向いていないのでスナック感覚で観られそうなものを選んでいます。テレビ番組なんかもあるしね。

ピングーとか、水曜どうでしょうとか、ブループラネットとか。

ピングーは今日第一シーズンが終わった所。第一シーズンはほとんど幼少期に見た事あるというか多分ビデオ持ってたんだろうな。懐かしかったし思うよりほのぼのほっこりしててピングー達も仲良しそうだった。

ピングーが家出したお話は結構トラウマだったな。あの怖い顔した氷。それから一番最後のピングーの夢というお話、これは怖い…。幼少期に見た覚えが無いのでもしかしたらこれが初めての視聴かもしれないけど、子供心には確実にトラウマになるだろうな。

直近でブループラネットの南極の回で散々ペンギンがオタリアに食べられる場面見たから、あれが天敵のオタリアで、捕食されそうになる夢なのではと一瞬で思い至りました。

そのオタリア(だったかアシカだったかオットセイだったか…)もブループラネットではシャチに生きたまま投げ飛ばされて弄ばれていて、弱肉強食の世界の恐ろしさと、死が当たり前にある自然とそんな自然の中にいながら死から意識が遠い人間のおかしさを感じました。

ブループラネットめっちゃ面白かったな。海に興味持った。

それから今日は「OCD~メンタル・クリニックは大騒ぎ~」を見た。

強迫性障害を持った患者たちがまだ来ない医者を待合室で待つ間お互いの発作に眉をひそめる、というあらすじから笑ってはいけない待合室的な感じかと思ったら意外と交流的で前向きなお話だった。

当事者からしたらこの映画はどう映るのかな。やっぱり都合の良いフィクションだと思うかな。慰める感じが気に食わないとか思うかな。それとも元気をもらうかな。

でも努力すれば…とかお涙頂戴みたいなシリアスじゃなく一貫としてコメディで説教臭さが薄れてたのが良かった。役者さんの演技もすごかったな。

それから一番良かったって思ったのはエンドロールに映ってたその後の皆さん。完全に障害を克服した!バンザイ!っていう描写じゃなくて、ちょっとずつ克服していってる、でも時々負けちゃうっていう描写なのが良かった。神に祈りを捧げる典型的強迫性障害の一番性格悪いおばさんの、だんだん克服していってるんだな、あ、でもやっぱり不安になってカバンから鍵探しちゃうんだな、…本当に鍵忘れちゃったんか~い!みたいな所がお気に入り。何言ってるか分からないと思うが詳しくは観て下さい。

時間も一時間半くらいで丁度いい感じの映画だった。

スマホアプリのフィルマークスという、映画情報をチェック出来たり鑑賞記録を付けられるアプリを友達に勧められてやっていますがこの映画を検索しても出てこなかったorz スペイン映画らしい。でも出なかった。何故だ~~

フィルマークスで気になってチェックした映画をネトフリで検索しても無い映画がたくさんあり、アマゾンプライムにも課金しようかと思案中。

DVDプレイヤー無いし近所のレンタル屋ポンタカード必要で会員とか面倒だし映画館も無いしでこういった動画配信サービスはとてもありがたい。こうしてネットやるついでに見られるお手軽さも良し。

でもたまには映画館で観たいというか作品に直接投資しないとな。

昨日スパコミが終わりました。これで二次創作の同人活動は一旦休止です。

いや、何も新刊というしっかりした本を出していないのにな。最後になるかもしれない日にこれで良いのか?と思わなくもないが、そこは同人なのであまり気に病まないようにしようと思う。

イベントでは忘れ物が多く、何回も出ているはずなのにあたふたしてテンションが気持ち悪くてもう申し訳ないです。もう人間としての自分の事はどうか気に留めないで欲しい。作品作りを通して私は会話するから。

本当に、なんか、相手の欲しい回答を読み取れないし、聞かれてもいない事答えるし、会話って難しいな……。

でもたくさんの人に話しかけられてとても嬉しかった。嬉しかったからこそうまくお話できたら良かったのにな…。

差し入れも前代未聞の量を頂いた。過去最高だ。昨日は天候も悪かったのに。ありがたいことこの上ない。アイマスクまでもらってしまった。目のクマ取れないから本当に助かる。お手紙も大切に読ませて頂いた。もう嬉しくて少し涙が目にたまった。しっかり作品を見て感じて、それを文字にまでしてくれたのだ。すごい。天使か…。

イベント参加の度にこうして元気がもらえるからもっと出たいしもっといい作品を作れるようになりたい。自分の為にとはいえ、見てくれる人がいるからこそだ。

頑張ろう…。

もう少し。

今日はようつべで90年代のベストヒット歌謡曲メドレーなど流しながらゲームをしていた。

生まれていないはずなのにどこかで聞いた事のある曲が多い。曲名は知らないしイントロとか流されても何の曲か分からないような、でもサビを聞いたらあっ聞いた事ある!ってなるやつ。しかもそんな馴染みのないはずなのに懐かしいという気分になる。受精すらしてないはずなのに。この気持ちはなんだろう。

キンキとかサザンとかスピッツは父親や叔父さん叔母さんの車の中でよくCD流していたのを聞いていたから曲名こそ一致しないけど懐かしいと思う。

今はスピッツのロビンソンを延々リピートしてる。

コメント欄を見ると昔の音楽は良かった。今はくそみたいな事がたくさん書いてあった。案の定だよ。

何だ、今の音楽は軽いだとかアイドルがどうとか歌唱力がどうとか。どうせ話題になってる一部の有名どころしか知らずに言ってるんだろう。現代の音楽は終わってるだなんて。終わらぬわ。音のクオリティは間違いなく格段に上がっている。今や素人の中から能力のある者がどんどん表舞台に出るようになって、音楽が皆のものになろうとしている。丁度変化している様を今見ているんだと思うよ。

というか昭和~平成初期の音楽を聴いて育ってきた人間にはその年代に生まれた音楽が居心地よく感じるんだと思う。今変化していく新しい音楽がきっと居心地悪いだけなんだと思う。感情移入もできないだろうしね。自分の知っている、自分の身近にあったモノや形式に安心するのは新しい時代の人間でも早く生まれた人間でも同じ。そしてそれは音楽じゃなくてもそうだと思う。私も昔の曲はやっぱり音とか歌詞が古い曲だという感想を抱く。

でもその居心地の悪さを感じる曲にはきっと魅力を感じないんだろうがそれをイコール質が悪いとするのは短絡的だ。音楽は良いか悪いかで語りたくはないものだな。

私は生まれた年から今まで聞いた曲で感動したり自分を慰めたり奮い立たせたりしたのだから、どうかその時代の曲を貶さないで欲しいと思う。臭い言葉で言えば青春ってやつだよ。

コメント欄の中であった、今でもいい曲はたくさんある。ただ探さないだけ。今の音楽は自分で探しに行かないと良い曲には巡り合えないのかもしれない、っていう意見がすごい納得できた。たくさんあるもんね音楽。アマゾンミュージックの一つのジャンル巡るだけでも膨大な曲がヒットするんだし。

それに探さずに今の曲を全部頭ごなしに否定して自分の時代の音楽に閉じこもるのは楽しいのか?楽しけりゃいいけど。でも私の時代を貶すくらいなら黙っててくれ。

 

曲を聞くのは好きだから全然苦にならないのにな。

これが漫画とか小説とか映画になると途端に苦痛になる。

娯楽は楽しみたい。 

 

パソコンのネットが使えなくなっておりました。

正直ネットサーフィンしていた時間を作業の時間に費やせていたのでネットない方が人生的にいいのでは?と思わなくもないのですが外部からの情報が遮断される為一長一短といったところでしょうかね…。

 

一年半くらい経った今でも退学した大学の事を思う。

結構著名人の中には大学を中退した人いるし、大学は義務教育ではないから中退は恥じる事ではないとは思う。その中退が何か目的を持ってのことであれば尚の事そうだ。

でもやっぱり私は絵から美術から逃げた結果の中退だったから、恥ずかしいのかもしれない。自分の生きる術である絵。本当は絵描くの好きじゃないのかもしれない、生きるのが好きじゃないのかもしれない、大好きだと思ってたはずの絵が他人になるのが怖かった。

中退していなかったら今月の上旬私は卒業生だった。

後悔しない選択を、っつったってこんなん後悔するに決まってるじゃないか。後悔しない人生の選択をすることが最初から可能ならば、私は生まれる事を選んでなかったぞ。

でも退学を選んで損したことは美術の情報や経験や学ぶ機会が失われることで、これらは私の努力次第では補えるものなんだよなあ。

今はどうだ。全然補えていない。補えれば、それで結果が出れば後悔したとしても退学が間違った選択にはならないはずだ。

展覧会最近行ってないな…。月一は必ず行きたいな。ルドンの展覧会行きたい。お金が足りない。シフトを増やすべきか。働きたくない。でもお金。遊ぶ金。食べる金。払う金。製作費。労働嫌いには生き辛い。

 

うーん相変わらず自分の事しか考えられていないな。もっと、見渡さないと。

何から始めればいいんだろうか。

作品のインプットはできている。小説はあんまり読んでいない。買ってはいる。

映画も見れてない。映画見るの苦手だ。どうしても。でも見なきゃ…。

何をすれば私はスキルアップできるだろうか。

先日は従兄の結婚式に出席しました。

ブログ終わりまで書いたのに謎の電波不調で下書きデータ全部消えたのでまた改めて書き直す羽目になりました。

f:id:utsuligi:20180407204007j:plain f:id:utsuligi:20180407204016j:plain

結婚式は幼少期に行ったことがあるようで写真が残っているのですが全く覚えていないので、実質昨日が初めての結婚式でした。

結婚式とか披露宴はお金持ちの道楽の一種だと思っていました。キリスト教徒でも無いのに神父さんにお祈りしてもらったり小さい頃のビデオ流したりケーキ入刀とかよく分からないし、結婚なんて愛し合う二人のただの約束でいいじゃん、そんな儀式めいたことする意味が分かりませんでした。

でも出席してみて、結婚式って夫婦の契約の場に証人として呼ばれているのが分かったしそれだけじゃなくて今までお世話になった家族とか友人とか上司や同僚たちへのお礼とかおもてなしの意味があるんだなと思った。新郎新婦二人だけの為の儀式じゃなかったんだ。

お料理もおいしかった。磯臭くないウニなんて初めて食べた。肉もおいしかった。

久し振りに会った従兄はなんだかキザで朗らかな大人になっていた。

彼に関する記憶は中学生の時で止まっていて、いつもゲームばかりしていて近寄りがたいなあと思っていた。

新郎新婦二人忙しそうだったし会話はしなかったけど、写真撮るよって時に私を手招きしたその仕草がキザに見えた。なんでだろ、タキシード着てたからかな。

幸福の空間だった。

印象に残っているのは、新婦入場の時に新婦さんのお母さんがベールを取るところ。お母さんの優しい眼差しが幸福の形をしていた。

新婦さんのご両親すごい泣いていたな。仲も睦まじそうだったし、愛に溢れた幸せな家族だったんじゃないかなあと感じた。新婦さんとは面識全く無いんだけども。

従兄の両親、私にとっての叔父と叔母も最後に泣いてたな。

叔母さんの涙を我慢して歪んだ顔が、今までずっと似てないなと思ってた自分の母の顔とやっぱりそっくりだ…って思ったら涙が出てきた。

温かい空間だった。幸福ってこういう事なのかな、と感じられた。

幸福と言っても、結婚=幸福という図式が成り立つんじゃなくて、あくまであの場あの瞬間が幸福だったんだ。幸福ってそういう物なのかも。

幸福って作れる物なんだ。

人間が作っているんだ。空間の事なのかも。いや、今回閉じ込めることに成功したのかも。その時間にはその時間だけの幸福が存在しているんだ。もっと永続的で不変的で唯一で博愛的で誰にでも降り注ぐ雨のようなものだと思ってた。でももっと刹那的で個別に存在するものなんだ。

幸せって結局自分にはよく分からないんだけど、でも今回結婚=人生の幸福とかいう図式とそれによる結婚に対する嫌悪感は崩壊して嬉しく思う。違うんだ。結婚は女の幸福だと言う社会に押し付けられた幸福で自分を呪わなくていいんだ。

でもやっぱり結婚の式は幸福だと思うけど、私の欲しい幸福とは違う気がした。

いい気付きを得た。人生観がまた少し豊かになった気がする。

現在はスパコミのイラスト本の原稿をやりつつ過ごしています。

一枚のイラストを描くのが苦手です。元油画科のくせに。

漫画が描きたいな…。

退学に至るまでの期間の事をずっと繰り返し思う。だんだん分析できているような、でももしかしたらそれは未来の自分が勝手に後付けしたものかもしれないけど、分解して言葉にして自分の今後往く道が見えてくればいいな…と思う。

課題をこなす為に油絵を描いてた。正直油絵描くの好きじゃなかった。描いてると嘘ついてる気分になる。楽しく描いているように見せかけてたけど楽しくはなかった。本当はこんな絵描きたくないと思いながら描いてた。私が表現したいと思う事を表現する方法は漫画が一番手っ取り早かったしそればっかりしていたから表現したい事が漫画の形になっていくんだ。でもそれは自分に出来ることだけやるみたいで、怠慢に思えて、代わりに油絵を描いてた。真面目な芸術家気取りだ。そもそも漫画と油絵以外の技法を知らなかった。予備校だって基礎科飛ばしていきなり油画コースに入った。私は何の為に大学に入るのかなんて考えてなかった。入って勉強したらその内決まるだろうと思ってた。私は本当に何も考えてない。ただ、心の奥底で漫画が描きたいと思ってた。

課題で漫画を提出しようとは思ってなかった。単に自分で読み返せないくらい恥ずかしかったし未熟なのを分かっていたし教授怖いし。そもそも漫画という媒体で提出する意味を問われたらこれしか自分に出来ることが無いとしか答えられないからだ。

でも、漫画が描きたい。

自分のやりたい事と課題がうまく重ねられなくて大学生活が苦しくなったんだ。もちろん金銭的にも苦しくなっていた。辞めた方が自分の為に良いと思ったんだ。

その当時は自分の気持ちの分解ができなくて先生に全然自分の気持ちうまく伝えられなかった。ただやめたいという思いだけがあって、なんかうまく説明できなかった。本能で脳が塗り潰されているような感じだった。それ以上深い事が考えられなかった。やっぱりなんかの障害なんじゃないか。それか私の魂のリーンカーネーションの回数が少ないんだろう。

なんか書いてて悲しくなってきた。

やっぱり結果を出さなきゃ。と思う。しかし幸せになりたい。

この未熟さを失くしていかないと。

まだ上澄みだけ掬ったようなうっすい漫画しか描けない。

自分が自分でいることが恥ずかい。早く死にたい…。

f:id:utsuligi:20180331160724j:plain

f:id:utsuligi:20180331160804j:plain  f:id:utsuligi:20180331160736j:plain

レアンドロ・エルリッヒさんの展覧会に行って参りました。

明日が最終日なのを昨日思い出し今日バイトを終えてすぐ向かいました。

やっぱり土曜日は電車が混む…。展覧会も混む。平日に行けばよかったですね。

この作家さんについて事前知識は何もなく、ただポスターになっている建物の窓に人間がいる画像が気になって行こうとチェックしていた程度でした。

まず展覧会会場に外人さんがたくさん居たのが驚きでした。六本木という事もあるだろうが、有名な方なんだろうな…。すごい面白い作品たちで、なんて言ったらいいのか分からないけど、なんか画期的というか大衆を巻き込む感じって言うか、インスタレーション作品だからなのかな、人に対して伝えるっていう感じが伝わったというか…目立つし、まさにアーティストって感じだった。

頼む語彙力よ。

作品は基本インスタレーションで、作品に来場者が参加するタイプのものが多かった。鏡とか「映る」というテーマの作品が多かったな。目の錯覚、というか固定概念にヒビを入れる衝撃の作品。びっくり楽しいって感じだった。

最後の作者本人が意図について喋るビデオを見て、この人もすごく論理的に作品を作っていると思った。それぞれの作品についてるキャプションからもそう思った。

なんていうか分かりやすかった。やりたい事表現したい事が作品という一旦出た結果にちゃんと表れてる。一見単純明快な発想だと思う。鏡を覗いたらそこに自分がいるとは限らない…なんて怪談チックだ。でも作品の完成度がそれをかなり現実に落とし込めてるっていうか。そもそも物の出来が良かった。美容室の作品とか本当にお店みたいで入るの躊躇しちゃった。美容室苦手だから。

鏡に対して固定概念を持っている事がよく分かった。鏡は目の前にある物をそっくりそのまま映す。と思ってる。現実風景がそのまま映る。鏡っぽい枠があって、これはこちら側を映すものだと無意識下で考えながら覗くと、その向こう側に鏡は無く筒抜けの状態、向こう側をただ映していて、自分が映ってなくてひどく混乱する。

それからそれらのインスタレーションの模型なんかも展示されてて、これも論理的だと思わせる要素だった。やっぱりがむしゃらに絵の具塗りたくるのとは違う、しっかり建設的に作ってる。すごい。

アパートのドアの覗き穴を覗く作品があったんだけど低身長が災いして背伸びしてギリギリ覗けたという事件があった。その時に、そうだ作者は外国人なんだ、と思った。想定身長が高かった。恥ずかしかった…。

恐らくオール写真撮影オッケーだった。最近写真撮影オッケーの展示増えたなあと思う。私はまだ作品の前でカメラを出すのに抵抗がある。食べ物でさえちょっと抵抗ある。お行儀が悪いように思えて。

でもちょっとググったら外国の美術館は写真撮影はおろか私語もオッケー、スケッチもオッケーときた。日本の美術館がちょっと窮屈なくらいだそうだ。私は海外に行ったことが無いから知らなかったしすごく衝撃だった。そういえば展示会にいた外国の方は楽しそうにお喋りしながら作品を見る人が多い。なんか、今まで自分が展示会で喋ってる人嫌だなとかカメラ出すの嫌だなって思ってるのがヘボいみたいでなんか、やだな…。

海外、フランスとかだともう生活に芸術がしみ込んでるといった具合らしい。日本という国は芸術への価値観や評価が貧しい国なんだな…。私も芸術の事敷居が高くて心の中で正座して向き合うような物だと思ってた。

美術館の話に戻るけど多分狭いっていうのもそういう要因だと思う。画像とかで見る外国の美術館すごいでかいし広い。敷地からして違う。で日本の美術館は作家の知名度等によっては混む。そりゃそんな所でスケッチなんかできっこないよな。スケッチどころか立ち止まらずにとアナウンスされる。うーん。

でも正直今回のレアンドロ展もかなり混雑してて、列に並んで順番に見る作品もあって並んで待つ間退屈だったし、呑気に自撮りしてる人に早くしろよインスタ野郎とイライラしてしまった。どうやってその問題を解消すればいいんだろう。私含め国民全員穏やかで優しい心を持つしか無くない?

今まで特別興味が無かったけど今回の事と調べた結果を受けて、海外の美術館行ってみたくなった。20代の内にどこか一か所は行きたい。貯金しようか。

やっぱり自分の世界は狭い。心も狭い。

そんなんじゃあ、良い作品作れないよなあ。

 

そうそう、レアンドロさんはとても論理的だと言ったけど、
こういう事を考えている。こういう事を表現したい。それにはこうしてこうする必要がある。どうやって作る。何を使う。作る。どう見える。っていう論理的なプロセスを経て作品を作っていくのがきっとアーティストの素質、最低限大前提の素質なんだと思った。そして私にはそれが出来なかったから美大を辞めることになったんじゃないかと思った。先生に言われた私の幼稚さっていうのは、そういう論理から作品づくりが出来ない事なんだと思う。

なんか私の中で、大学生だった時のとある作品の講評の時に言われた「良くも悪くも子供っぽい、幼稚さがある」という先生の言葉がずっとひっかかってるみたいだ。そこに私の成長の手掛かりがあるのだと本能が告げている、ってやつなんだろうか。

自分で考えることが出来ないんだ。他者から与えられたアイコン的なものを使って組み合わせてそれを自分の意見や表現としているんだ。考えることが出来ない…。

 

自分の話は他の記事で喋ろう。

 

上の写真は一番目がポスターにもなっている目玉展示。窓が空を向くように住宅の壁のオブジェが置いてあって、その奥に斜めになった巨大な鏡が置かれていて、来場者は壁のオブジェの上で好きなポーズでいる。すると鏡に映ったその画はいつも私たちが見ている姿の住宅の壁に人間が重力を無視したように存在している非現実的に見える画だ、っていう展示。これ最初に直で見た時思わず感動しておおーという声が出た。

二番目は恒例のお土産とチケット。森美のチケットは絵柄がどの展覧会でも一律この森タワー?の絵だからちょっと集め甲斐がない。インスタレーション作品のグッズはやっぱり種類が少ない。それに最終日前日だし、バッジの絵柄も多分当初はもっとあったんだろうなあ。これはエレベーターの図柄。エレベーターのドアの中を覗く展示があったからそれのグッズだろう。

三番目は模型の写真。本人が作ったのかちょっと分からないけど本当にきれいに作られてて、考えてるんだなあって。

 

電車の中の読書は仏教のわかりやすい解説みたいな本。

なんか仏教好きだなあ。

でもブッダ、皇子なのに出家したいからって適当に子供作ってとっとと出家したとあって現代の感性で見たらクズじゃねえかと思った。子供の名前も不吉な意味になるように発音したとかなんとかって。く、クズやないか…

でも何かを成し遂げる人ってそういう所あるよね…。なんとなく解せねえ。

かなり分かりやすく仏教の起こりについて書かれていて悟った気になってくる。でも文章を読んでるだけじゃ自分の中に無い思想体系は入ってこないな…じっくり自分の中で解体していかないと。

アニミストに私はなる!