Hyper Carronade

灰色のはい

一昨日は高校の同級生と、自分の働く喫茶店でコーヒー飲みながら喋りました。

先日のコミティアのスペースに来てくれたパッション溢れる子です。面白い話たくさん聞けて楽しかったです。

彼女と喋ると、楽しい反面自分って本当になんとなくで生きてんなあ駄目だなあと思います。

きちんと真っ直ぐ創作に向かい合っている。愚直なくらい自分の気持ちに正直、真っ直ぐだから不器用なんだろうなと思うけど柔軟性があるから空木みたいに壁ぶち当たったくらいで鬱にならないだろう。まあ彼女の事なんも知らないからすごい適当な事言ってると思うけども。

深いところまでの思考。もっと考える時間が欲しいなあ。一人の時間が少なくなった。脳死している時間が多くなった。

私なんも考えてない。やっと賢くなってきたと思ってたけどまだまだ全然レベルが低いな…。

ていうか前々から思ってたけど空木、人と会話するとき会話の流れ、落としどころとか緩急とか色合いをデザインしがち。ここはこういう属性の言葉を言って、ここできゅっと締めて、こういう顔で終わりにする、みたいな。だから自分の本心とか意見より先にこの場に欲しい言葉を探しがち。なんかどこか外側にいる。

 ていうか私の思考は言語じゃなくて抽象的な聴覚なんだよな。

 小さい頃に少し音楽をやっていたから基盤というか、絵が生活の根底にあってそのスペアパーツが音楽だった。とか言って聴覚思考はそれとはまた違う音(音っていうのもまた違う気がするけど)なんだけど。声?頭の中で会話する。相手が自分だったり、現実で会話し終わった後の続きを頭の中でしたり、自分の中の形になってない感情を調べる為に架空の相談役を作ってただひたすらまとまるまで聞いてもらったり、適当に歩いてたらばったり誰かに会ったという架空の状況設定をして会話をしたりする。どれも現実に会話する時と同じようにしっかり流れを組んで綺麗に聞き心地が良いように調節する。

会話は私にとって音、音楽、物語、作品だな。

音による会話って抽象的だよな。残らないし。だから些細な会話は覚えてないのかな。

 

茶店で絵描きながら話した後、千葉市美術館でやっていた「目 非常にはっきりとわからない」展に行きました。

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 昨日が最終日でした。

同級生が前情報として、ツイッターで呟かれてる本展示の感想を教えてくれたんだけど「ぞっとした」とか「不安になった」とか「気づいたら二時間くらいいた」とかそういう感想ばかりで、一体どんな展示が待ち受けているのか?と思っていました。

けれどなんだろ、私は別にぞっともしなかったし不安にもならなかったな。「おお、なるほどすごい」とは思ったけど。どっちかと言うと迷路とか間違い探しみたいで楽しかったんだよな。

 なんか全て未完成で工事中で絶対に完成しない物で出来た空間で、入場する時に「audience」と印字されているシールを配られたけど、本当の意味でオーディエンス、ただの客、聴衆ではなく、そういうモチーフの一つとして扱われていて作品に組み込まれて、私達入場者含めて"展覧会"って感じだった。見る人と作品があって初めて展示って成り立つものな。

これはツイッター感想の中で腑に落ちた意見なんだけど大体他の展覧会で展示されている物は作品として完成させられたもので、その作品 対 見る側というはっきりした関係があるんだけど、この展示は見るべき作品がどれか分からないからこの関係が成り立たないんだと。そこに気持ち悪さが生まれていると。

確かに会場出た後本当に何でもない普通の工事現場のおじさんの荷物とか資材とか足場とかそういう物がさっきの展示みたいに見えたんですよね。それふと思った事だったんだけど結構この展示の核なのでは。作品と自分たちとそれ以外の境界を曖昧にする作品だ。

この展示の大まかな趣旨としては、今現在工事中の千葉美術館を利用したインスタレーション作品で、会場内はアトリエっぽくもあったし展覧会開催前の準備期間中みたいだったし改装工事中にも見えた。そしてこの空間がまた美術館の外観にマッチしていた。インスタレーション作品ってこうだよなと思った。

そして恐らくだけど、一日単位か開催期間内でか分からないけど展示の様相が変わってくるっぽいのね。私が入場した時ビニールシートで遮られていたところがあったんだけどしばらく見てたらアーティストっぽい人たちが動いていてやがてシートが外され違う空間が現れた。他にも時間で変わってそうな箇所があった。今回の展示、期間中再入場が本人確認さえできればタダだったんですよね。だからこれ繰り返し入場でもっと楽しめる展示なのかもしれない。二時間三時間滞在したっていうのもそういう意味なのかな。わたしゃ探偵か。本当に現代アートって意地悪ななぞなぞにしか思えないや。

同級生の見解は神視点の作品でお前らこんな不安定で未完成な世界で生きてるんだぞって突きつけている作品という事らしい(ざっくり)。工場現場の足場=不安を煽るという、モチーフの表す記号が私の中には無く工場現場の足場について感情を思い起こした事が無かったから観てすぐそういう風に言語で表せるからすげーって思った。彼女は多分言語論理思考の人かな。

私は観て、なんか団子が脳内に出来はするけどすぐには正体暴けなくて、こうして一人で椅子座ってブログ書く事で向き合ってやっと言語になるんだけど、前述した通り芸術とそれ以外の境界を曖昧にして芸術とは?と分からなくして今一度芸術を芸術たらしめる要素を考え直す事を提起する展示だと感じた。

多分この展示見た人によって見え方違うだろうな。

美術館が工事中の今だからできる展示で二度と同じ空間に行くことが出来ない。千葉美術館のあの武骨で立派な外観だから出来た空間。他の美術館じゃ出来ないな。

とても貴重な空間だった。

好きか嫌いかで言えばどっちでも無いけどじわじわ面白かった。言語化した今すごい面白い展示だったなーと思えてる。

 

芸術を芸術たらしめるもの…。見た人の脳に何某かをもたらす意図が感じられるか否か、かなあ。

この展示も会場内にあったものはありふれているし未完成だから何一つ芸術が無いように見えるけど少し引いてこの展示全体が、この未完成な物達ありきで成り立っていて思考促進機関みたいになってたから芸術と言える。でも道端の工事現場の足場なんかは誰かが必要でそこに置いていた仕事道具で、展示会場にさえ置いていなければ見ても何の感情も呼び起こさない物だった。これは芸術では無い。かなあ。

 

同級生は漫画を描く人で何本か商業漫画描いててそれについて主にお話をしていた。

漫画は商業。何回も言われてきた事だけど、結局好きな物を描いて認められるかは力-power-が全て解決しそうだよ。譲歩とか我慢とか要らないと思う。

私とその同級生は同じでは無いけど多分、アート寄りなのだろう。なんていうんだろう。表現をしようとしているんだよな。皆の為に楽しい漫画を描こうとしている訳じゃなくて自分の中の何かを漫画の形にする事自体に意味があるんだ。描きたい>読みたいなのかな。

私もコミティアの新刊をこの間編集部に送りました。結果待ちだけど、正直商業漫画を描ける気しないよな。自分の為の、漫画を描く行為。同人できっと充分…。

やるなら迷うなよな。まあそれは結果出てから。

でもなんか、続けたなあ。ここまで。

美大の教授との漫画家になる約束、絵を描くのを表現をする事を辞めないで欲しいっていう願いだったと思う。

同級生の同じ大学の人達の中で絵を描かなくなった人の話が出てきた。

やっぱり辞めちゃう人っているんだと思った。他人事だけど。私は続けたなあ。じんわりと安心した。

辛い事とかしんどい事とか勿論あるけど表現を辞める事だけはしない。表現の世界にずっといたい。商業でも表現の世界で色んな刺激や情報があるはず。私はそれが欲しい。

 

また長々と書いてしまった。