Hyper Carronade

灰色のはい

ようやくやっていた漫画が完成した。

燃え尽き症候群が出る前にさっさと次の制作に取りかからないと。

その漫画を描きながら、何で私は表現者側にいようとしているのかな、なんで漫画という媒体でやってんのかな、ということを考えていた。

私は昔から自分の気持ちとか事柄について思ったこととか意思の表明をするときに、それを頭の中で言語に意味が伝わるように変換して音で以て出力する事が、その辺を司る何かがエラーを起こしてというか元々障害があるんだろうな、うまく出来なかったんですよね。

大事なときにも父親や先生に自分の気持ち言葉に出来ず話せなかったし。特に父親にはなんでこいつはこんなにうじうじしてるんだろう位にしか思われなかったかも知れない。

普段でも何言ってるのか伝わってない事あるし。逆に相手が言わんとしていることが汲み取れない事もたくさんある。現実でコミュニケーション下手でも良い私は作品で会話するんだ!とさえ思ってた。

「短い言葉だけで表現しきれない事だから作品を作ってるんです」ってどこかの小説家か誰かがインタビューで言っててそれがずっと印象に残っていて、そうか私が感じてから発声するまでに取り零す情報は漫画で掬えるのかも知れないと思っていた。

でも、よく考えたら言語に出力できないって事は論理的にその外的刺激から得たやつらを理解できてないという事になるのでは?自分でもよく掴めてない不確かな物を、どこまでも稀釈・抽象化できてしまう作品という媒体に落とし込んでしまうのは本末転倒な気もする。(そもそも取り零すような些細な物なんだからそういう風になるものなのかも知れない)

でもそこで不特定多数の観覧者という救いの手があって、稀釈してしまい作者自身が見失ってしまった物、あるいは無意識の産物をそれぞれの解釈が掬ってくれる。観覧者がいて初めて私の会話は成立する。

なんだか極めて他人任せな営みだな。

より要素の多い映像作品でも良いのになぜ漫画なのか。ずっとやってたから一番取り掛かりやすい、親しみやすいからに他ならなくて、今から映像の勉強をするなんて気が遠くなってしまいそうだ。それは怠惰だ。

映像作品は漫画作品の上位互換という訳ではないぞ。これらを私はまだいっしょくたに考えていて、音や動きの情報量でしか違いが分からない。それぞれどんな表現に適しているのか知らねばならないな。

あーやる事いっぱい。もっとしっかりせねば。