Hyper Carronade

灰色のはい

しばらくツイッターは控える期間にしている。

フォローする人は皆私が憧れていたり好きな人や創作をする同級生だけで、タイムラインで彼らの生活が垣間見える訳だ。

でも大体呟くのって何か重大なイベントがあった時とか、こういう事したよみたいな、四六時中人生の隅々までリアルタイムで発信している訳じゃないから、呟きだけ見るとすごく楽しそうで素敵な人生に見えるのね。

私は他人と自分を比べてしまう人間だからそれをずっと眺めているとだんだん自分を悲観視していくのね。まあ実際何もしてない日も多くて、手も遅いから全然作品上げられないから悲しくなるのは自分のせいなんだけど。

なんか、インスタ映えの為に頑張る人の気持ちが分かった。

焦るんだなあ。人の素敵な部分の生活が可視化されるようになったから。自分の人生も素敵なんだと、自分でそれを信じたいから。綺麗なご飯を写真に撮ってるのかもしれない。綺麗な部分を切り取って、たくさんいいねをもらったら自分の人生は素敵だとひとまず安心できるんだ。

他人に対してマウンティングをするという気持ちよりも自分で確かめる為にやっている気持ちの方が実は強いんではないか。別にそこまで他人の事憎んでないでしょ言うたって皆。知らんけど。

何かしなきゃ何かしなきゃって思いながら生きるのは余計疲弊する。余計に何もしたくなくなるし、やらなきゃと思いながらやるのは娯楽の神様たちに対する冒涜な気がする。

やらなきゃと思いながらインプットし続けているとだんだん自分の好みすらもあやふやになってしまう。今私の作品に必要なのは「性癖を伸ばす事」。それにはまず自分の好きな物を分析する必要がある。まあ手あたり次第やらなきゃで見続けても結果的に好みを見つけることができるならそれでも良いのかもしれないけどね。でもできるなら自分の興味の赴いた物を楽しく見たいよね。

そうだ、理屈っぽい事抜きに単に素敵な物を素敵!と言える精神状態になりたいんだ。

 

スピード、シェア重視のSNS時代は私には合わないなあ…生まれてきた時代間違えたなあ…と思います。

どこかのニュース記事で「同人作家に『クオリティ』を求められる時代が来てる」みたいな見出しを見つけてなんだかほっとした。

ツイッターの、共感出来たら勝ちみたいな漫画とか、気持ちを代弁するゆるキャラとか、どうしても好きになれないのですよね…。これが平成という時代の新しい形なのだけど、私は硬派で熱意のある、気持ちが動かされる作品の方が好きだ。貶すつもりは無いが私は好みじゃない。完全に一世代前の考え方だと自分でも思う。

お手軽感があるというか、タイムライン覗いていればぽんぽん出てくる物で、色んな作品があると言えど全体的に「作品というモノ」の価値が下がっているように思うんですよね。めっちゃクオリティ高くて素敵な作品も、量産型の無個性な作品と一緒にタイムラインに乗ればシェア、シェア、無断転載。評価はされるんだろうけど、なんだか軽く見られてしまっている気がして。勿論人によってその価値観は違うし愛で方も違うのだけど。大切に額に本棚に飾る時代は終わったのだ。

なんか、私は作品を作るという行為を崇拝しすぎて神格化している部分もあるから過激な事を言うかも知れないけど、作品は宝物みたいに扱って欲しいなあと思うのです。

なんだろ、インスタレーションみたいな持ち帰れない作品だとしても、その時に感じた感情とか動かされた気持ちの感覚とか大事にして欲しい、自分の物にして欲しい。

漫画とか小説も同じ。読んで何か気持ちが生まれたりしたら大事に自分の物にして欲しい。

共感。そう考えるとツイッターとかで共感してシェアするというのは見た側なりの感動の表れではあるのか。ただ、ボタン一個の手軽さが軽々しく見えるだけなのかな。

共感な…。共感の先に何があるんだろ。それはエモ止まりじゃない?でもそれで良いのかな…。娯楽ってそういう手軽な物で良いのかな。私が上見過ぎているだけなのかな。娯楽に期待し過ぎているのかな。

うーん。分からない。

でも、私は作品に熱い気持ちや清々しい美しい感動を与えられた事が何回もあるから、あれをこそ私は娯楽だと思っているのかもしれない。だからそういう作品を私は作りたいと思ってるだけだ。その価値観を人に押し付けちゃいけないぞ。

手軽に発信出来て手軽に見られるのは良い事だ。

ツイッター漫画をおいしくていっぱいちょこちょこ食べられるポテチとするなら、私が目指す物は1ピースのザッハトルテだ。現状まだ一枚のビスケットにしかなっていないから、引き続き頑張りましょう。